電装制御屋の備忘録を運営するtaroimoとはどんな人間か?

わざわざこんなページを見にきてくれるなんて、ありがとうございます。

せっかく来てくれたんだから、笑って読み終えられる自己紹介をします。



僕には特別な才能はありません。小中高大学と学力はずっと中の下でした。

小学生のときはいじめられ、中学高校と続けていた卓球の成績もパッとせず。
大学に入学してからは麻雀漬けの毎日。いつも単位はギリギリ。
ハマっていた麻雀も特別強かったわけでもなく、小中高大と一貫して自堕落だったと思います。

そんな僕もプログラマーなる夢がありました。

しかしリーマンショックによる就職難で夢破れ、妥協して就職先を探した結果、現在の会社で工作機械の電装設計者として働いています。

2021年11月。後述する伝説のバカにより問題で適応障害を患いました。
そして2022年1月現在。投薬治療とカウンセリングが一段落して、経過観察中です。

目次

冬の寒空の下へ、はだしのまま追い出される

高校時代は国語が大の苦手でした。

当時は活字を読むのが嫌いすぎて、本を読んだら死ぬとまで思っていました。
なので国語のテストは毎回赤点。国語の授業中は寝るか、好きな数学を副業していました。

そんな僕のゴミみたいな授業態度に怒りを覚えた国語の先生が、素行不良を理由に両親へ報告。
それを知った母親に、反省と称して家を追い出されました。
食事中に、半袖Tシャツ、半パン、裸足、右手にお箸を持った格好で追い出されたことを覚えています。

季節は11月。しかも夜の19時。秋も深まり冬へ移り変わる時期だったので、めちゃくちゃ寒かったですね。
部屋着の格好で持ち物はお箸だけ。まるで無課金プレイヤーの装備かよ、って感じです。

その日は母親の怒りが冷めるまで自宅に戻ることを諦め、公園のベンチで朝が来るのを待っていました。

15年前、この公園のベンチで星空を見上げながら野宿したことを鮮明に覚えています

そうこうしているうちに、仕事から帰宅した父が心配して公園まで探しに来てくれました。

その後は父親に連れられ、ひとまず帰宅。父親と一緒に母親へ土下座し、許しを請いました。
野宿で冷え切った身体に、熱々のシャワーと布団の気持ちよさが体に沁みたことを覚えています。

しかし国語の授業態度が悪かっただけで、なぜ極寒の寒空のもと初期アバター状態で追い出されにゃいかんのだ。
子供に土下座させてまで、母親もキレる必要があったのか?

当時の自分は、自分の居場所を失いたくない思いから、母親の言うことを聞くしかなかったのだと思う。

この話は僕の鉄板ネタで、ちょっと仲良くなった人に自虐ネタとして話をします。
たぶんこんなアホみたいな経験をしている人は、他にはいないと思います。

同じようなエピソードを持っている方がいれば、コメントでもいいので教えて下さいw

結局こんな仕打ちを受けても、授業態度を変えませんでした。
プログラマーになる夢があったので、国語なんて必要ないと思い込んでいたからです。

いまさらですが、ブログを書くようになって『国語』をもっと勉強しておけばよかったと後悔しています。
ブログを始めた当初は、主語、述語、修飾語の使い方がわからなかったので、小学生向けの国語の学習サイトで勉強していましたw

家を追い出されるくらいアホが勉強に使った文法の解説サイト:国文法をわかりやすく解説-国語の文法

リーマンショックで絶望

高校時代からの念願がかなって、プログラミングを学ぶために大学へ進学しました。

もともと内向的でコミュ障なので、大学内の友達はゼロ。
別に友達を作りに大学へ来ていたわけではないので、ボッチを気には留めていません。
しかしボッチは代返はおろか過去問すら回ってこないため、大学の講義についていくのは大変です。

プログラミングなど興味のある科目だけしか頑張らなかったので、一般科目はほとんど単位が取れませんでした。
受講した講義の半分くらい単位を落とし、留年の危機が迫っていました。
途中から本当にヤバイを感じ、まじめに勉強を開始。
ギリギリながら1度も留年せずに4年生を迎えることができました。

次の大きな問題が、就職活動です。
僕の就職活動タイミングは、2008年にリーマンブラザーズの破綻から始まった大不況真っ只中。
大卒の就職率が50%くらいしかない、歴史的な就職氷河期でした。

これがリーマンショックによる地獄だ → 図録 学歴別就職者および大学卒就職率の推移

当然、就職活動は大苦戦。
プログラミング関係の企業を30社ほど受けましたが、内定ゼロ。
唯一最終面接までいった会社からも、内定をもらえませんでした。

大学卒業を目前にして就職先が見つからず、新卒カードを残したまま来年に賭けようと、就職留年を決断。
両親にその旨を伝えることにしたのです。

しかし留年をするには学費が必要です。私大だったので、年間100万円を超える学費が必要でした。
留年費用を捻出してもらうため、両親に対して人生二度目の土下座したことを覚えています。

最初はド𠮟られる。と思っていましたが、このとき意外にもOKの返事がもらえました。
事情が事情なだけに同情してくれたのでしょうかね…

翌年の就職活動ではプログラマーになることを諦め、興味があった製造業へ的を絞ることにしました。
それが功を奏して、なんと1社目で内定がもらえました。それが現在も務めている会社です。

このとき就職活動に嫌気がさしていたので、内定が出た直後に就職活動を止めて今の会社に決めました。

幼いころから夢見ていたプログラマーにはなれなかったけど、無事に就職活動を終えられてひと安心。
卒業までの残りの11ヶ月は、アルバイトと麻雀漬けの日々を過ごしました。

余命3年

今の仕事にも慣れてきた2015年頃、右耳に拍動性の耳鳴りが起きるようになりました。
しゃがんだ状態から立ち上がると、ひどいめまいに襲われ倒れそうになることも。

体調を心配しかかりつけの耳鼻科で聴力検査を受けましたが、聴力に問題はなく原因不明。
先生から「脳に異常があるかも」と言われ、精密検査を受けるための紹介状を書いてもらいました。

それから仕事が忙しくなり、病院に行けない日々が続きました。
たしか4ヶ月ほど紹介状を放置していたと思います。

当然、先生からめちゃくちゃ怒られました。
放置している間に悪化していたら、ただ事じゃなくなるぞと。

起こられた後はMRI撮影をやりました。
初めての経験でしたが、検査に対する不安はあまりなく、むしろ面倒くさいと思っていました。
結果待ちの間も「大したことはないだろう」と楽観していたことを覚えています。

そしてとうとう問診の順番が回ってきました。
簡単な問診を済ませたあと、MRIで撮影した脳内の写真を見て先生が一言。

えらい先生「脳の松果体部分に腫瘍の影がみえますね。早急に手術しましょう」

参考:松果体腫瘍|脳外科医澤村豊

あまりにも唐突すぎて、そのときは「わかりました」としか答えられませんでした。

その後は淡々と「ご両親と勤め先に連絡してください」「手術の日程は〇〇にしましょう」「看護師から入院と手術について案内します」と言われ、診査室をあとにします。

入院関係の案内を一通り受けたあと、言われたとおりに両親と勤め先の上司へ、入院、手術のことを電話で伝えました。
両親も上司も心配してくれましたが、そのときの僕はまだ「そんな驚くことかなぁ」くらいに軽く考えていました。

それから自宅に戻って、Googleで『松果体 腫瘍』について調べたのが運の尽き。
これがいけなかった。
調べれば調べるほど悪い話ばかりが目に入り、一気に不安が押し寄せ心が潰されました。

『余命3年』『ガン治療』『放射線治療』

何を調べても嫌な言葉が目に入る。
人生終わった…と落ち込みました。

それから手術までずーっと不安で不安で仕事も趣味も手につかなかった。
毎日、毎日「死ぬかもしれない…」それで頭の中はいっぱいだったことを覚えています。
死ぬ前にやっておきたいことなんかを書き出したり、遺書も書きました。

人は死を目前にすると、後悔ばかり頭に思い浮かぶ生き物だと身を持って体感した瞬間です。
この経験は今の僕にとって、人生を変えるほどのインパクトがありました。

そして時は流れ、予定通り入院。
術前検査を受け、ついに手術当日を迎えました。

病室から手術台へ向かうときの気持ちは、まるで絞首台に向かう死刑囚のようでした。
意外にも不安な気持ちはなく、諦めに近い感情の方が強かったことを覚えています。
今更ジタバタしたって何も解決しない。なら今後の医学のための犠牲になったるわ! とハラを括っていました。

手術台に寝そべると、看護師数名が手際よく手術の準備を進めていました。
麻酔の針を刺す担当が研修医だったようで、あまりの下手さに痛みで悶絶したのはよく覚えています。
注射の針が神経に当たると、めちゃくちゃ痛いんですよ…
結局は主治医が針を刺し直し、事なきを得ましたが、この先の手術がすごく不安になりました。

手術の準備が終わり「今から麻酔をしますね」と言われてから、数秒で意識を失いました。
いまでも手術中の記憶は全くありません。

手術が終わり麻酔が切れた頃、胸のあたりをポンポンを叩かれ意識が戻ったことを覚えています。
「手術は無事に終わりましたよ」
そう言われ目を覚ましました。

手術には約8時間かかったそうです。
術後はストレッチャーに移され、集中治療室(ECU)へ運び込まれました。

丸一日の間、ECUで過ごしましたが、あそこはこの世の地獄です。
何もできずに24時間もベッドの上で過ごすだけ。テレビ、スマホは当然ありません。
集中治療室には僕一人。寝ては起き時計の針を確認するたびに時が進んでいなくて絶望しました。
点滴の針を外したりしないよう、ベッドに拘束されていたので身体の自由もありません。
とにかく時間が早く過ぎることを願うばかりでした。

それから24時間ほど経ち、容態も回復。集中治療室から一般病室に戻りました。
術後6日間は回復のため入院生活を送り、検査結果が出てから退院か追加治療かを決めるとのことでした。

検査の結果は良性の腫瘍とのこと。
しかし腫瘍の切除による身体不随のリスクを考えて、全摘出はしなかったそうです。

今でも腫瘍が脳内に残っていますが、体調に問題はありません。
年に一度は定期検査を受けていますが、術後から現在まで体調に変化はなく良好です。
手術から6年たった今も、笑い話としてブログに書けるくらいに元気なことが証明しています。

僕の人生で『死』と向き合うことになった出来事でした。

危険な後輩が入ってきた

2018年頃に中途採用された後輩が入社しました。

後輩は変わった性格の持ち主です。
26歳にもなって、高校生のような言動を繰り返します。

片付けができない、借りたものを失くす、ヤンチャ自慢をする、納期を守らない…など、僕の常識からは外れた人間でした。

最初は「こいつ大丈夫か?」と不安になりました。
それでも彼と向き合いながら、一つひとつ指摘して更生させていきました。

そんな後輩も2021年には3年目に突入し、大型案件を担当することに。
納期に余裕のある案件だったので、時間をかけてじっくりやれば後輩でもやり遂げられる、と思い僕から上司に推薦しました。

大型案件を担当しても、後輩は毎日定時で帰り、有給もしっかり取得。
コロナウィルスのデルタ株が蔓延する中、関西に遊びに行ったと言うほどだったので、仕事は順調だろうと見積もっていました。

そして時は過ぎ、大型案件も目の前に迫った一週間前。
そこで上司から思いもよらぬ報告を受けたのです。

じょうし「後輩君、『この仕事、僕にはできません』だって。どうにかできない?」

頭が真っ白になりました。
それを聞いた直後は、「は?」だけが頭の中をめぐり、思考が停止したことを覚えています。

時間が経って落ち着くと、上司に後輩を含めて話し合いの席を設けるように頼みました。
そこでは後輩は蚊の鳴くような声で話し、しょんぼりした顔。
反省しているような態度でした。

しかし本人の主張は反省とは真逆のことを言い始めます。
「こんな難しいことはできない」
「あとのことは知らない」
「難しい案件を振った上司が悪い」
などと、自己中心的な言い分でした。

上司と僕はコイツに見切りをつけ、この大型案件を僕が引き継ぐことしました。
しかし納期直前で何も進んでいない状況。このままでは100%工事ができないのは目に見えています。
なのでお客様へ謝罪して、納期を延期してもらいました。

これだけのことをやっておいて、後輩本人は謝罪の一つもなく翌日から元気に出社してきます。
迷惑をかけている自覚がないのか、手離れしてスッキリしたのか、ほかの同僚と談笑していました。

僕が感じていた『こいつヤバイかも』が、『こいつアカン』に変わった瞬間です。

また逃げた

2021年は会社の業績が良かったため、たくさんの仕事が舞い込んできます。
当然僕一人では処理しきれないので、上司は新たな案件を後輩に割り振りました。

後輩は一つ返事で「やります」と回答したそうです。さすがに上司も懲りろよマジで。

先述したギブアップ事件があったので、また投げ出すだろうと思っていました。
そしてやっぱり後輩はギブアップしました。

じょうし「後輩君、12月いっぱいでやめるって」

それは上司の口からでた、突然の一言でした。

後輩は一度だけでなく二度も案件を投げ出したのです。
しかも辞めて責任から逃げる幼稚な発想。無責任極まりない行為です。

となるとまた投げ出された案件は誰がやるのか。
僕の仕事は2022年の3月まで手一杯。
もう他の案件が入る余裕はありません。

このような状況で後輩が投げ出した案件なんて処理できるわけがない。
なんで僕が後輩の尻拭いをしないといけないのか。もう体が持ちません。

無責任な後輩の自己中心的な行動によるストレスと、処理しきれない仕事量により、僕の心は悲鳴を上げる寸前でした。

そこで上司に対して「納期を分散して負担を減らしたい」と伝えました。
会社側も被害者なのはわかっていますが、自分の心が壊れる前に対策を打たねばなりません。

僕がやらざるを得ないことは承知のうえ、最大限の妥協案を提案しました。
しかし返ってきた言葉は無慈悲でした。

じょうし「納期は変えず全部どうにかしてくれ」

頑張れば何でもできる、昭和生まれが好き好んで使う根性論でした。
令和の時代に昭和の精神論を持ち出すとはね。ああ、無慈悲。もう心が折れました。

それからはストレスで死にそうな毎日。会社に行くだけで一杯いっぱい。もうなにも手に付きません。
会社にいるだけで動機、息切れ、めまい、頭痛に襲われます。
自宅に帰っても、不安からくるストレスで不眠となり、パフォーマンスはダダ下がり。

こんな日々を過ごした結果、体と心は限界を超えました。

そして適応障害へ―――

もう会社は頼りになりません。

家族もできる限りのケアをしてくれますが、限界があります。
これ以上は家族に迷惑をかけたくないし、いつ自殺してもおかしくない。
もう自分ではどうしようもなくなり、心療内科に助けを求めることにしました。

心療内科の先生に、今の心境や体に起きている症状を事細かに話しました。
話している途中で何度か泣きそうになりましたが、頑張ってこらえました。

そうした下された診断は『適応障害』。
メンタルが強いことに自信を持っていたので、精神障害になってしまったことはショックでした。
それでも自分が病気であることを第三者が証明してくれたことで、会社との交渉する材料を手に入れたのです。

心療内科を受診した翌日に、適応障害と診断された診断書を会社へ提出。
適応障害の原因が仕事からくるストレスであることを伝えました。

診断書には上司も驚いたようで、ストレス低減のため仕事を減らすことを約束してくれました。
これで仕事量によるストレスの問題はどうにかなりそうです。

もう一つの問題が後輩です。

こいつによって僕のメンタルはボロボロ。遠くからヤツの声が聞こえてくるだけで、頭痛がします。
さっさと辞めればいいのに、12月のボーナスをもらうまでは居残るそうです。
ここまで図太い神経の持ち主は初めてです。

僕が過去に知り合った人間の中で二番目にクソです。
ちなみに一番クソな知り合いは、違法賭博を開帳して逮捕されました。
そのやばい人はニュースに載りました → 風俗営業の許可無しでカジノゲームさせ メイドカフェ経営者逮捕

後輩が会社からいなくならないと適応障害は治りません。治療方法は環境を変えるのみ。
毎日出勤するだけでストレスマッハ。冗談抜きで会社へ行きたくない。
不安を抑える薬であるセレナール錠を服用していなかったら、ストレスで自殺していましたね。

死ねば不安から逃げられるのだから。

やっと後輩が消えた。が、仕事の量がヤバイ

2022年に入り、やっと後輩が退職。
ストレス源が消え、メンタルも安定してきたので、徐々に今まで通りのパフォーマンスを出せるようになりました。

しかし仕事量は膨大に膨れ上がり、パンク寸前です。
営業マンたちは今まで通りに2人分の設計案件を取ってきますが、後輩が辞めたため2人分の処理能力はありません。
今となっては電装設計者が僕1人分しかいないのです。

さらに追い打ちで、後輩がやった過去の仕事にトラブルが発生。
担当の営業マンが僕のもとへ対処を求めてきますが、断りました。

危険な後輩君のせいでメンタルを病んだ時、手を差し伸べてくれた人以外は助けないことにしたからです。
みんな口では「心配だ」「休んでね」「大丈夫」とは言いますが、積極的に行動を起こしてくれた人は数人だけでした。

この一件から、僕のリソースは損得を超えて付き合ってくれる人たちのために使おうと決めました。
八方美人は誰も敵にならないが、誰も味方になってくれません。
そんな人生よりも、敵を作ってでも味方がいる人生のほうがメンタルが安定することに気づきました。

人生で大きなトラブルに遭遇した時、損得を超えて助けてくれる味方を作る。
そんな友達作りが大切だと、この事件は教えてくれたと思います。

おわりに

まだまだ語りたいことはいっぱいありますが、このくらいにしておきます。

まだまだある、ダメダメエピソード集では、ここに書ききれないエピソードを短編でまとめました。

こんな人間ですが、今では工作機械の電装制御をバリバリやっています。
その知識を自分のメモ用にまとめようと発足したのが、この電装制御屋の備忘録です。

2021年の2月から開始して、約1年の間にたくさんの人々がアクセスしてくれました。
この経験から、自分の知識がみんなの役に立つことを学び、技術を学ぶ以外にも設計者ができることを知りました。

2022年からは、引き続きFAの電装制御に関わる技術的な記事や、この業界のリアルな話を書いていこうと思います。
またプライベートな目標である資産1億円までの道のりもつづっていこうと考えています。

まだまだ世間はコロナに振り回されて、今まで通りの仕事ができません。
それでも技術を磨いて、読者の皆様を満足させられるブログを目指したいと思います。

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